画家・常田 健の生涯






 一方、作品公開に向けての本格的な準備が同時進行していました。いつでも描き直し描き足しができるようにあまりサインはしなかったという健の作品は、制作年さえ分からないものが少なくありませんでした。状態悪く保管されていた作品を東京まで運搬する事への懸念、剥離や剥落のすすむ戦前の古い作品の修復依頼などのために人々が奔走します。搬出に際しては専門家である前出の尾崎眞人を中心に状態チェックを行いながら慎重な作業が行われました。


 多くの関係者の努力が実り1999年6月15日から始まった「常田健 津軽に生きる88年展」は大盛況でした。公立の施設や美術館でもない一画廊の企画展として異例の入場者数(55日間で1万3,500人)を記録したのです。会場の片隅で、35年ぶりに上京したという健が戸惑うようにポツンと座る姿が目撃されています。展覧会の図録には各界著名人が讃辞を寄せ、会期中にはキャスターの筑紫哲也(1935-2008)が浪岡町のアトリエを訪問したインタビューがニュース番組で放映されました。


―――画業の個々のことについては、かねてより知悉の方々に譲るのが適当だと思うが、一点だけ言わせていただければ、「東北の農民画家」とか「津軽のゴーギャン」とかのレッテル貼りぐらい、この人にふさわしくない、むしろこの類稀れな人を貶める言い方はない。常田健は常田健以外の何者でもない。そして、今も、これからも、この人と作品は光を放ち続けるだろう。このことだけは疑いの余地はないと私は信じている。
(筑紫哲也/ジャーナリスト)(資料@より)


 画廊での展覧会の成功を受けて、全国各地で巡回展の予定が決まりますが、本人は「うーん、みんながやってくれるんでねえ。有り難いことです。百姓ばかりを描いているのが、きっと珍しいんでしょう。」(資料Cより)と、にべもない。
 常田健は2000年(平成12年)の春、NHK衛星放送で「洋画家 常田健 農民の姿を描き続けて」が放映された4日後の4月26日、画友たちと過ごしている時に突然「気分が悪い」と言いだし、そのまま急性心筋梗塞で不帰の人となりました。享年89歳。全国巡回展が始まる前日のことでした。


―――絵画はきれいなもののためにあるのではなく、偽りのないもののために、そして観る者に勇気を与えるためにあるのだということを、常田の絵は無言で示してくれる。(尾崎眞人/神奈川県平塚市美術館学芸員=当時)(資料Gより)




 かねてより建設準備会が発足していた「常田健美術館」でしたが、にわかな「土蔵の画家」ブームの巻き起こる中、突然逝ってしまった常田健の作品保存を望む多くの人々によって、その建設が具体的に動き出しました。幸いほとんど絵を売らなかったので代表作がひとつも欠けることなく残されています。 
 健と共に「青森美術会」の設立に参加し、アトリエで夜遅くまで度々語り合っていたという親友の画家・濱田正二は、その設立に尽力したひとりとして、次のように語っています。 



―――常田健という男ほど健康な精神、健やかな心を持った画家はこの世にいないでしょう。〜(中略)〜 常田は自分の作品に対して絶対の自信と誇りをもっていたし、自分の絵と自分の生き方がどれほど今の日本の美術界に衝撃を与えるかも知っていた。それが常田健美術館の設立に同意した動機ですよ。
(濱田正二)(資料Kより)

 2005年(平成17年)5月、常田健が丹誠を込めて育てたリンゴ園の傍らに「常田健 土蔵のアトリエ美術館」がオープン。現在、年間の開館日は限定されていますが直接作品を鑑賞することができる唯一の施設です。同時に敷地内にある「土蔵のアトリエ」も生前のままの姿で公開され、ご家族やボランティアの皆さんの尽力で維持・管理されています。その晩年に至るまで、作品の表現技法でしばしば悩み続けていたという健が、大好きだったバッハを聴きながらカンヴァスに向かう姿が今もそこにあるようです。


2010年(平成22年)は、画家・常田健の生誕100年にあたります。


 平和の尊さ、自然への尊敬と畏怖、「土」に触れ汗して働くことの喜び。私たちが立っている「大地」は、想像を絶するような数多の困難に立ち向かい克服してきた先人たちが、それこそ朝は朝星、夜は夜星を頂き、命がけで遺してくれたものです。
 常田健が見つめ続け、描き続けた日本の「農」を取りまく環境は、技術の進歩や食糧事情の変化、流通や外交を含めた国の農政などによって大きく揺り動かされてきました。そして、その混迷は今も続いています。


 しかし、私たちは知っています。粒々辛苦、決して絶望することなく辛抱強く、しかも底抜けに明るい笑顔で働く元気な先輩農民が数多くいることを。そして今、全国各地で知恵を絞り、自然との共生に向けて汗を流す多くの若者がいることを――。

―――思うに、色々なジグザグが無限的に眼前にあるが、しかし、決して失望すべきでない、という確信は持ち得るように思う。僕らの四周はやっぱり、生きて、そして、刻々と非常に徐々にではあるが「良く」なりつつあると思うのだ。人々は、大多数は無意識的にではあるが前進している! これは全く必然だ! 生きて行く、ということは、良くなっていくということだ。断じて悪くはなっていかない! 少なくともそう見ることが生きる上に必要であり、けっしてそれは強引な主観でなく、僕は少なくとも人間に対して、これだけの信頼は持ちたい。
(常田健)(資料Dより)



 農民を描き続けた常田健が、私たちに指し示す希望の光。「絵を描くこと」
――それは、彼がこの世に生まれ、特別に帯びた使命であったように思えるのです。(完)












■土に生きる
―常田健小画集
講談社
■画集 常田健
(特別限定版作品集)
角川春樹事務所・発行
紀伊國屋書店・発売
■土から生まれ
津軽の画家
常田健が遺したもの
平凡社



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■記載の事柄・史実について誤りがあれば、それはひとえに編集小子の不見識・不勉強によるものです。文中での敬称略と併せてご容赦願います。■今号「探」コーナーに使用した常田健さんやご家族の貴重なスナップや、作品画像はすべて常田健さんのご遺族の許諾を得て掲載させて頂きました。本誌から転写・転載することはできません。■協力 「常田健 土蔵のアトリエ美術館」/岡田 文様/岡田考文様 ■以下の文献・WEB SITEを参考にさせて頂きました。また、丸数字の資料からは関係諸法令に基づき引用させて頂きました。
「画文集 土から生まれた〜津軽の画家 常田健が遺したもの」常田健・著(平凡社・刊)資料D/「土に生きる 常田健小画集」(講談社・刊)資料G/画集「常田健」(角川春樹事務所・刊)/「常田健展 図録」(NHKサービスセンター・刊)資料I/「季刊 銀花」第121号(文化出版局・刊)資料@/「画集 阿部合成」(三彩社・刊)
資料A/「月刊 ダ・ヴィンチ」1999年9月号(メディアファクトリー・刊)資料B/「隔月刊 あおもり草子」1999年6月号(企画集団ぷりずむ・刊)資料C/青森美術会機関誌30周年特集号『青森平和美術展』資料E/同時代ライブラリー「修羅の画家 評伝阿部合成」針生一郎・著(岩波書店・刊)資料F/「小さき者へ・生まれ出ずる悩み」有島武郎・著(岩波文庫版)資料H/「大地の画家 常田健展 図録」(青森県立郷土館、東奥日報社・刊)資料K/「東北という劇空間」村上善男・著(創風社・刊)/「バッハ 忘れられていた巨人」ひのまどか・著(リブリオ出版・刊)/知の再発見「バッハ」ポール・デュ=ブーシェ著、高野優・訳(創元社・刊)/「バッハの風景」樋口隆一・著(小学館・刊)/「草の葉(上・中・下)」ウォルト・ホイットマン・著、酒本雅之・訳(岩波書店・刊)/「太宰治の肖像」久保喬・著(朝日書林・刊)/「津軽・斜陽の家 太宰治を生んだ地主貴族の光芒」鎌田 慧・著(祥伝社・刊)/「追跡・太宰治」市川渓二・著(北の街社・刊)/「津軽」太宰治・著(岩波文庫・刊)/「グッド・バイ」太宰治・著(新潮社・刊)資料M/「人間失格・桜桃」太宰治・著(角川文庫・刊)資料L/常田健 土蔵のアトリエ美術館H.P./ギャラリー悠玄H.P.資料J/東北電力H.P.「白い国の詩」2008年冬号/WIKIPEDIA The Free Encyclopedia 他

本記事は2009年秋に発行の「花の心第55号」に掲載されたものです。 

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