画家・常田 健の生涯

冬の土間仕事のためにワラを背負い運ぶ。一年間の農作業に必要な分の縄、俵、草履や筵(むしろ)などを夜鍋して編みました。同時にそれらは貴重な現金収入にもなったはずです。 かつての農業に欠かすことのできなかったのが牛や馬。土間の一画には彼らが暮らすための小屋があり、家族同様に大切にされました。


 故郷の浪岡町へ戻った23歳の常田健。この時から祖父の田畑やリンゴ園を手伝いながら、(当初は)小作人の備蓄米用の倉庫を改造したアトリエに籠もり絵を描き始めます。以来60年余り、農民画家としての日々が続くことになるのです。

―――時代の中で歪みをもつ「農民自治主義」とイデオロギーとしての自我形成に疑問をもってしまった「個」とのせめぎ合いのなかで誕生したのが、常田健の「農民絵画」であると私は思っている。(尾崎眞人/板橋区立美術館学芸員=当時)(資料Cより)

 常田健が思想弾圧を受けたためにプロレタリア絵画を捨て、絵のモチーフを農民に向けたというのは早計、一面的のそしりを免れないでしょう。農民を描くことは、健にとって戦うことと同じ意味をもっていたのではないでしょうか。寡黙で表情を押し殺した農民を描いた数々の作品は、百姓になりきろうとした健の決意であると同時に、自身の中にも潜む「憤り」や「祈り」や「諦め」や「希望」が幾重にも塗り込められたものであるように見えます。しばしば指摘されるのが、ノンフィクション映像を撮るカメラマンが構図を決めた時の無意識的な作為。それはフィクション(虚構)ではないかという論題。では、真の実像を捉えるための条件とは? それは、撮り続けること。対象を見つめ続け、追い続けることからしか真実は見えてきません。虚構と真実の板挟みから解放されるためには、徹底的に対象物と対峙するしかないのです。健は、「私は百姓の暮らししか知らないから、それを描いてきただけだ。」(資料Cより)と、世俗的なことなど知らぬとばかりに飄々と語っていますが、根底にあるじょっぱり(青森弁で強情っ張り)気性が、60年余りも故郷に腰を据え、多くの農民絵画を生み出してきました。健の克己心。それはとても勇気のいることだったのではないでしょうか。

―――うそ偽りのないものを描くためにしらずしらず外形を克明にうつし、そのそれぞれが真に似てはいるが、少なからず自分の意図が混濁してくる。(常田健) (資料Dより)


 美術史的意味や歴史的価値は後世の専門家たちが評価をくだす事でしょうが、農民を描き続けた健の作品は、同じ農民としての自己形成の記録であり、戦後日本の農村のドキュメントであり、描かれた農民たちは「崇高なる労働者」、時代を語る生き証人だと思えてくるのです。 「セザンヌは、自分の絵を誰がどう認めるかなどとは意識しなかっただろう。謙遜な人、純粋、偉大な人だったと思う。」
(資料@より)と、健が「わが畏友」と呼ぶピーテル・プリューゲル(1525-1569)と同じく私淑していたという近代絵画の父、ポール・セザンヌ(1839-1906)が、「リンゴでパリを驚かせたい」と描いた作品が有名な「リンゴとオレンジ」です。健が[AR研究所]時代に触れたであろう社会主義的リアリズム論では、「1個のリンゴを描いても革命は表現できる」と語られていたように、健はひたすら農民を描きながら社会や国家を見据え、「革命」を表現していたとも考えられます。


田んぼに引く水をめぐっては、それこそ命がけの争いもありました。堰(せき)を掘るのももちろん人力です。まだまだ重機など普及していません。 稗(ひえ)がはびこる年は凶作になると言われていました。薬剤に頼らない[花と緑と農芸の里]では、今でもこうして一本一本手で抜きます。

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