画家・常田 健の生涯



[ジェット機の下]
油彩/制作年=1970年(91.0×65.2cm)
[米を守れ]
油彩/制作年=1994年(149.0×116.0cm)

お米の生産調整、減反政策など農業に関わる事案の他に、青森県では米軍基地、原子力施設、産廃最終処分場、原子力船など様々な問題を抱え、農民たちは戦い続けてきました。
常田健の作品群は、農民やこうした時事問題を描いた作品の他に、「農村風景」「母子」「りんご栽培」などに分類されます。


時代は「平成」。81歳で「第12回青森県文芸協会賞」を受賞したその翌年に妻の純さんに先立たれてしまいました。


―――私の奥さんが生きていたころ、いやあ、不思議だなあ。お互いにほとんどしゃべらなかったですよ。奥さんのほうは教師だったから勉強していて、私はアトリエで絵を描いていた。そうやってお互いにわかっていたんでしょう。
(常田健)(資料@より)



 健が87歳で「第39回青森県文化賞」を受賞した翌年、1998年(平成10年)2月の或る日、東京の画廊オーナーが雪深い健のアトリエを訪れました。偶然見た14年前の画集に衝撃を受けて青森県立郷土館の学芸員に案内を請うたのでした。土蔵に導かれることを訝しみながら学芸員に伴われてアトリエへ。紹介された健に、画集で見た絵にいかに感動したかを熱っぽく語りますが、健は自身が認める訥弁とつべん、極端な口重で話に興味も示しません。東北気質に輪を掛けた含羞がんしゅうの人なのです。ようやく絵を見せてもらえたのは2回目の訪問の時、「たいした絵じゃないよ」とボソボソ呟きながら見せられたのは、雨漏りがする埃だらけの納屋にビニールシートに覆われた状態でしまい込まれていた200点余りの作品でした。「ビニールシートにくるむと熱が篭もるし、シートを外すと雨にやられるし…」(資料Jより)と悩みつつ健が無造作に置いていたのでした。画廊オーナーは、貴重な作品がこうした状態で保管されていることにショックを受けると同時に、「早くここから出さないと駄目になる」「これらを埋もれさせてはいけない」と強く思ったと言います。
 そして、画廊オーナーは展覧会を開催して多くのひとに観てもらいたいと健を説得しますが、元々「人に観せたい」とか「作品を売りたい」と思ったこともない健は関心を示さず積極的ではありませんでした。そんな健とは対照的に「ようやくこの時が来た」と喜んだのは、健が晩年まで親交を結び、互いに「健ちゃ」「ふっちゃ」と呼び合う画友の尾崎ふさでした。


―――常田さんの描く絵は、本物の百姓にしか描けない絵だ。人物の形、背中の筋肉の盛り上がり、そこに込められた人々の憤りや優しさ。この絵の素晴らしさを、いずれきっと誰かがわかってくれると思っていた。
(尾崎ふさ/画家)(資料Gより)


 「そんなに俺の作品が良いと思っているんだか…。それだったら、展覧会やっていいよ。」(資料Jより)と健が展覧会開催を了承したのは、画廊オーナーが青森へ通い詰めて半年後のことだったといいます。
 その後、画廊のスタッフたちが作品チェックのために幾度も青森へ通い、「ああ見えても、お客や周りの人に結構気を遣う人なので、初対面の人が次々やって来るのは、随分気疲れのすることであったろうと思う。」(岡田文)(資料Kより)というように、健の土蔵のアトリエがにわかに慌ただしくなってきました。

 そして、展覧会は翌1999年(平成11年)夏の開催と決まります。画廊で行う展覧会にも関わらず「作品は売らない」、「日本中の人々に観て貰いたいだけ」という熱意だけで打算のない展覧会実現のために健の作品を「知った」多くの人々が動き出しました。画廊オーナー旧知の制作会社社長がドキュメント番組の制作を申し入れ、ひと月間、健と寝食を共にしながら撮ったドキュメンタリー番組「常田健・土から生まれた150枚」が年明け1月にNHK衛星放送で放送されて、大きな反響を呼び、様々な活字メディアが特集を組むなど、健があずかり知らぬところで「土蔵の画家」ブームが起こりました。また、展覧会に合わせて画集が出版されることも決定。角川春樹事務所が出版元、紀伊國屋書店が発売元となり監修・装丁は横尾忠則が担当、常田健の生涯の一冊といわれる特別限定版作品集が完成しました。



―――絵が"手段"じゃないわけですよ。認められるための、誰かに買ってもらうための手段ではなく、自分の絵を描きたいっていう欲望だけがあって、その思いがキャンバスに表現されていれば、それだけで、じゅうぶんなんでしょう。今の世の中で、そんなひと、あまりいない。ひとりもいないかもしれない。(横尾忠則/画家)(資料Bより)


 
     
      

      

『草の葉』を書いたウォルト・ホイットマン(1819-1892)は、アメリカにおいて「最初の民主主義詩人」「自由詩の父」と呼ばれた詩人です。ジャーナリストや公務員として「普通の報酬」を得る時代を経て、36歳の時に『草の葉』の初版を自費出版します。以来、拡充(増殖)・改訂(おびただしい修正)を重ね続け、亡くなる前年に出版された「最終版」(俗に「臨終版」と呼ばれる)に至る大詩集(37年!)となりました。
ホイットマンは叙情的な自由詩を広く市井の人々にまで広めることに愛情を持って取り組み、「詩人と社会の間には、欠くことのできない共生関係がある」と信じていました。『草の葉』は、自身の混沌・錯綜を繰り返す壮大な精神のドラマともいえます。彼が亡くなった年に、かの夏目漱石は「文壇における平等主義者の代表者『ウォルト・ホイットマン』の詩について」という文章を発表しています。今となっては常田健が『草の葉』を愛読した理由や、膨大な文字量のどの項が好きだったかを尋ねることは叶いませんが、苦しみながら生み出した「言葉」を自在に操り社会の矛盾を注視して、時に愛を、怒りを、そして希望を綴り続けたホイットマンの姿が、常田健の姿と重なります。

――ちなみに、座右の書としてアトリエに残されていた『草の葉』は健の叔父・常田四郎による翻訳版だったそうです。常田四郎は、「草の葉―抄訳詩集」(旺文社刊)の他、ホイットマン研究書「夢想の天才の光と影―ホイットマン『草の葉』の世界」(1巻/2巻)(荒竹出版刊)を著しています。

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