画家・常田 健の生涯




苗を運ぶのは男仕事、植えるのは女仕事。
昭和40年、地方の農家には既に高齢化の波が押し寄せていました。
 
1934年(昭和9年)、常田健24歳。その頃、従兄の合成は専門学校卒業後の兵役を免れ、県内の公立学校で嘱託教員になっていました。夏休みに帰省した合成は健と共に絵画研究や制作に励む芸術集団[グレル家]を結成します。ふたりで阿部家旧宅の土蔵のコンクリート壁四面に「連作 海の群像」を制作したのもこの頃です。互いの作風を確立する前の荒削りな技法ながら、漁場で働く人々を大胆な構図で活き活きと描いた大作、プロレタリア色の濃い作品となっています(現在は青森県立郷土館に保存)。[グレル家]の“グレル”は不良になる、ぐれるからの命名。翌年、合成が父の逝去により家督を相続、東京へ移住後も[グレル家]の活動は続き、画家の卵や詩人や音楽家、作家などが連夜集っては時を過ごしていました。招かれては夏毎に上京していた健ですが、やがてこの集まりからも静かに身を引き、故郷に根を張る画家になっていきます。
 また、この頃に健は村の若者たちと「太陽会」という絵画同好会を結成し冬の夜長に集まっては絵を描いていました。5年ほどで自然消滅したこの会について「『働きながら描く』ということは、とくに百姓としてはむずかしいと思う。自ら事業の経営者であり、際限のない被使用人でもあるからです。」(資料Eより)と健は語っています。

 1936年(昭和11年)2.26事件、1937年(昭和12年)日中戦争(支那事変)勃発。1938年(昭和13年)、国家総動員法が発令され国民の暮らしは全て国家統制の対象となりました。健が28歳の時、その人生に大きな影響を与えた祖父・藤之助が85歳で他界します。健はその死を冷静に受けとめ、「いい人で、非常にいい死に方だった。」(資料Gより)という祖父のデスマスクのデッサンを描いています。
―――じいさんとの生活で、山仕事や田畑の仕事、いろんな仕事をさせられた。あれが人間の本当の生活というものだ。今はそう思っている。(常田健)(資料@より)
 健の祖父は、大地に根を張り、働く姿をもって、無言のうちにもっとも大切なことを彼に示してくれていたようです。

 常田健の画風について、「若いころから変わっていない。絵を見ればわかります。」と語るのは画家・横尾忠則(1936〜)です。同時に「おもしろいのは、田舎でこつこつ、絵を描くのが好きでやってこられた方は、ふつうプリミティブ・アート(素朴派)に向かうはずなんですが、常田さんの絵にはアカデミックな技術があり、教養もある。そういうものに背を向けてはいるが、基本は外していない。」(資料Bより)とも評しています。
 健は、東京での画学生時代に中期ルネッサンスの画家たちの壁画写真展で観たフレスコ画に「驚き」「感心した」といいます。「その様式の強靱さ、人体のいいようのない適確さに感心したのだ」、そして「これこそ労働者農民を描くにふさわしい様式ではないか。」(資料Eより)と考え、その材質感、独特の画面の表情や様式を取り込み、自らの油彩における画法(表現)を確立しようと励みました。


それまでの千歯扱きや足踏み脱穀機にかわって自走式のハーベスタが登場。
[花と緑と農芸の里]では、今も現役で活躍中です。

刈り入れと脱穀・袋詰めが同時にできるコンバインの登場は、農業の省力化をいっきに加速させました。

何の相談をしているのでしょう。既に刈り入れが終わっている隣の田んぼに林立するのは、東北地方独特の「棒かけ」と呼ばれる天日干しのためのハザです。


今も現役で働く自走式動力脱穀機=ハーベスタ。一度はリタイアして農家の納屋で眠っていたもの。いまや[花と緑と農芸の里]に、欠くことのできない頼もしい助っ人です。

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