『里の秋』誕生の翌年、昭和21年(1946)に海沼實と川田正子のコンビは『みかんの花咲く丘』というヒット曲を飛ばします。作詞は『可愛い魚屋さん』を書いた加藤省吾でした。一方で同じ年の3月、斎藤信夫は教壇を下ります。(代用教員期間を除き)16年間の訓導時代は終わりました。

早速、次の日から職さがしに歩いたが、世は就職難時代で、なかなか見つからない。

 田植えを控え水が張られる季節、職さがしに疲れた信夫が横になっていた夜更けに、冬眠から目覚め たばかりの蛙の鳴き声が聞こえてきました。教師を辞めたものの、再就職もままならない自分への苛立ちややるせなさを思いやり、励ましてくれているかのような元気な鳴き声。

悶々としてやるせない胸には「ガンバレヨ ガンバレヨ」と聞きとれるではないか。そうだ、蛙の言う通りだ。万物の霊長たる人間が、これしきの事で、何たるざまだ、よし頑張ろう、ついては優しく励ましてくれた蛙たちに、思い切り早春の夜の美しい歌をプレゼントしようとして書いたのが、この作品である。

 「子ども心を友として」をモットーに作品作りに精進した信夫の真骨頂が発揮された作品、名曲『蛙の笛』です。その年の8月に海沼が曲をつけ、正子の歌でNHKから初放送、レコード発売されました。『The Frog's Flute』…この歌は後年アメリカの出版社の英訳歌集にも載せられ斎藤信夫の代表作のひとつとなりました。

詩の材料は、どこにでもあるものだと思います。それを注意深く見つけ出す心をもつことが、人が生きる上で大切なことだと思うのです。世の中をそうした心と目で見つめていくことが、今、本当に必要なのでしょう。

 一度は就職したものの、会社が倒産してしまった「ルンペン中の」信夫は作品を書いては、よく海沼を訪ねていました。海沼との打ち合わせやレコーディングの合間に、川田正子の宿題を見てあげる事もしばしばでした。この事を、斎藤信夫の詩集に寄せた文章で「当時は、戦後間もなくの混乱期でしたから、学校の授業が十分に受けられなかった私のために、先生は親身になって教えて下さいました。その教え方は、私がよく理解できないときも決して怒らず、わかるまでじっと待つというやり方でした。静かで、やさしく、とてもていねいだった印象が、いまもなお残っております。」と、川田正子は語っています。また、正子は自身の著書で、「私の代表作は『みかんの花咲く丘』だと言われることが多いのですが、歌っていて素敵な曲だなと感じるのは、むしろ『里の秋』です。〜(中略)〜『里の秋』は、大人になってからも数え切れないくらい歌いました。叙情的で、成人の声で歌ってもおかしくない童謡だと思っています。」と、『里の秋』への愛着を語っています。斎藤信夫との親交も、晩年まで続きました。平成13年(2001)に歌手生活60周年記念コンサートを開催しましたが、一昨年の1月に虚血性心不全のために71歳で急逝されました。

  斎藤信夫の創作ノート=65冊の大学ノート(B5判)に書き残された作品には、すべて通しの作品番号が付けられています。最後の作品(1万1,127番)の後には、1万1,136番までナンバーだけがふられていました。まだまだ童謡を作り続けていきたい…信夫の声が聞こえてくるようです。

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