昭和20年(1945)12月24日の放送当日、斎藤信夫は草稿を携えて成東駅から一番列車で東京へ向かいました。海沼との打ち合わせ中に、JOAKから「番組は回線の不具合により浦賀港での中継を断念、内幸町の放送会館スタジオからの生放送に変更する」という電話が入りました。




かなり時間の余裕ができホッとすると共に、頭も回転をはじめた。そして、三番の終わりを「祈ります」として、やっとできあがった。

 スタジオへ着くと、さっそくリハーサルが行われました。「海沼先生が、私の音域に合わせて作ってくれた曲だったので、とても歌いやすかったのを覚えています」と川田正子が語るように、誰にも馴染みやすいメロディの歌が完成しました。リハーサルと本番の間の休憩時に、海沼から「童謡のタイトルとして『星月夜』は硬いから歌詞の一番にある『里の秋』をタイトルにしましょう」という提案があり、信夫にも異論はありませんでした。進駐軍占領下のラジオ放送では、全て検閲を受けなければならなかったので、急遽JOAKの係員が曲名変更の許可印を貰いに走りました。


 午後1時45分、特別ラジオ番組【外地引揚同胞激励の午后】が始まりました。引揚援護局担当者の挨拶に続き16人編成のオーケストラが、生まれたての新曲『里の秋』のイントロを奏でます。復興の進まぬ焼け跡に…着の身着のまま暮らすバラックに…空腹感漂う闇市の雑踏に…川田正子と子供たちの澄んだ歌声が日本全国に流れ始めました。一番二番を歌い、三番の歌詞を歌い終わった時、スタジオ内は水を打ったように静まりました。司会者も技術者も、出演者もオーケストラも全員が感動で胸を熱くしています。スタジオを包み込んだ静かな昂奮の波動は、ラジオを通して日本全国に広がっていきました。
番組が終了するや否や、JOAK局内のほとんどの電話が鳴り出しパニック状態になります。電話回線の復旧などまだまだの時代です。ひとつの歌にこれほどの反響があったのは開局以来の事件だったといいます。夫や父親、兄弟の帰還を願うラジオの前の人々から「何という題の歌か?」 「いい曲だった!」という声、「もう一度聞かせて欲しい!」というリクエストがほとんどでした。川田正子は、同番組内で『里の秋』を2回歌った記憶があると述べています。





あの自信喪失していた時期に、海沼氏が私に声をかけてくださったということ。そして、マアちゃん(川田正子)を知ったということ。このことが私の人生を明るいものに変えてくれました。


 こうして作詩されてから4年の間埋もれていた作品が姿を変えて世に出ることになりました。1回きりの番組のために生まれた『里の秋』。その反響の大きさから、翌年1月15日から放送されたラジオ番組【復員便り】の中で繰り返し歌われることになります。【復員便り】は昭和22年まで続きますが、同じ年の7月から始まった【尋ね人の時間】(〜昭和37年)へ、その役割を徐々に引き継いでいきます。



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