童謡作詞家 斎藤信夫の生涯


深まりゆく秋 ――――
紅葉が美しく色づきはじめた[花と緑と農芸の里]から
車で20分ほどに位置する成東城趾公園の山頂広場に、
一基の歌碑が建立されています。
成東町(現・山武市)出身の童謡作詞家
斎藤信夫自身の揮毫による『里の秋』の歌碑です。
日本人の心の原風景を描き、
終戦直後の荒廃した人心を慰めた名曲。
その後も日本を代表する童謡として歌い継がれる『里の秋』は、
戦争と敗戦…時代のうねりの中で、
ひたすら「童眼童心を通して」童謡を書き続けた
ひとりの教育者が遺した名曲でした





 


 





斎藤信夫は明治44年(1911)3月3日、千葉県山武郡南郷村の農家の長男として生まれました。弟と二人の妹。父・三樹は、信夫に農業を継がせるつもりでいましたが、「体の弱いのを理由に、会社勤めをしたかった」という本人は、教育者であった祖父・茂三郎(地元小学校の校長などを歴任、退職後は村政に尽力した)の影響から、代用教員を経て千葉師範学校に入学します。卒業後は郡内の小学校の訓導(くんどう=旧制小学校の正規教員)を務め、昭和7年 (1932)に千葉市内の小学校に転勤。この学校で7歳年上の先輩、市原三郎と出会いました。
5月の或る日、自宅へ招かれ、市原が詩誌の同人として長編叙情詩や民謡、童謡で活躍している事を知って驚きます。氏が作詩した童謡レコードを何枚か聞かされた時には、「あたかも馬上の将軍の英姿を見つめる子供のように」興奮し、時のたつのも忘れて、その詩談に聞きほれました。

一日も詩心から離れられない自分の運命は、想えば(市原)先生訪問の日に奇しくも運命づけられたのでありました。物のはずみは、実に恐ろしいものです。


 市原に貰った詩集を大切に抱えて「興奮はさめやらず心を躍らせつつ」下宿にたどり着いたその夜は、目が覚えて眠ることができませんでした。そして心に抱いた市原と詩への羨望が、「自分にも出来ないはずはない」という、燃えるような野心に変わっていったのです。


私は、中学一年生になったときから約10年間、一日も欠かさず日記をつけて来ましたが、この辛抱強さを童謡の修行に替えたいと考え、ある日からピッタリと日記を止めて、その代わり童謡を毎日ひとつ必ず書くことに決心しました。


 斎藤信夫の童謡作品第1号は、まさにその夜書かれています。童謡の道を「修行」に例えるほど生真面目な信夫は1日1作を決意し、教職の傍ら原稿用紙へ向かいます(実際に、その後7年間は年平均400編以上の作品を書いています)。教え子や子供図書館で出会う子供たちの「仲間入り」をしながら、ますます詩の勉強に熱中していきます。


子供たちの話している生きた言葉の収集やら研究も出来て、言葉の芸術たる童謡修練のため、非常に得るところが多くありました。


 童謡制作のためになるものなら絵本、漫画、童話のほか、子供向けの読み物などなんでも読み漁ります。もちろん先達の童謡作家の作品にも残らず目を通し「同業者に対する対抗意識を強めることと、内容形式共に他人の研究を吸収進化させること」にも励みました。



私には直接の師はない。全くの独学である。ただ、野口雨情、北原白秋、西条八十に私淑して、雨情の土の匂いのする叙情、白秋の天賦の感覚、八十の自由奔放の技巧をミックスしての精進は怠らないが、同じような風土に育ったせいか、雨情の作品に一番心惹かれる。




作品の背景となる風土という点について、斎藤信夫は後年の詩集の前書きで、「作品を書こうとする時は、大人心から子ども心へのスイッチの切り換えが全く速い。それも純農村で育った、かつての腕白少年にである。」と述べ、同時に「田園臭さが消 えない」点を、 自分の作品の長所であると語っています。





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