大正モダニズムによって庶民の食の嗜好が広がり、洋食が大衆化しますが、日本は白米のおむすびさえ贅沢とする時代へと逆行を始めます。「戦争の世紀」とも言われる20世紀ですが、昭和の時代になると辛くせつない記憶としておむすびを思い出す方も少なくないのではないでしょうか。盧溝橋事件に端を発した日中戦争(1937年〜)以降、食糧品の統制が始まります。1939年(昭和14年)には戦争の長期化に備えて、白米食の禁止が閣議で決定され、七分づき以上のお米は食べられなくなりました。「贅沢ハ敵ダ」、同時に嗜好品の禁止や贅沢を戒める引き締め策がとられました。お米を節約する「節米」が叫ばれ、代用食や空閑地での耕作を奨励、やがて主要食糧の配給制度がはじまります。1941年(昭和16年)には第二次世界大戦に参戦、徐々に配給は質・量ともに不足し始め、たびたび遅配も起きました。報道で伝えられる勇ましい戦況とは逆に、市民生活は悪化の一途を辿ります。

大人になって、戦争中空襲が激しいとき、警報が出ると、釜の中の僅かの御飯をみんなで結んで用意したこともおもい出す。逃げるとき、せめてそれだけでも持ってゆくつもりなのだ。あるときはまた、腹ごしらえをしておかねば、と、まっ暗い中で子どもたちや自分もそのおむすびを食べたり、警報が解除になって、ほっとして、ええい、食べちゃぇ、と、そのおむすびをひらき、次の朝の予定分を食べてしまうこともあった。(参考I)
 


戦時中東京に住んでいた作家の佐多稲子(1904−1998)による回想です。もちろんこのおむすびは「かて米」だったことでしょう。日本各地で米軍による無差別攻撃が始まると、空襲で焼け出された人々への炊き出しが各地で行われました。避難所では助け合いと相互監視のために結成された隣組や、婦人会などによってたびたび大量のおむすびが配布されたという記録が残っています。やがて敗戦が濃厚になってくると都市部での食糧不足が深刻化、炊き出しを行うどころではなくなっていきました。配給の遅配や欠配が多くなった頃には、かつぎ屋やヤミ屋が横行し、違法な闇市が各所にできていました。

山路君(知人)の談「私も二円ぐらいだったら買って喰おうかと思ったんですが、十円だって言うんで、驚いて止しちゃいました」と、これは、新宿駅で秘かに売っている、握り飯のことである。握り飯一箇、金十円也!その闇屋は、蜜柑箱に沢山入れて、売っていたそうだが、百コで千円の商をする訳だ。〜(中略)〜この日私は、一時間に亘る講演をして、謝礼の外に、御中食代金二十円を受領したが、なるほどこれで握飯二コ喰える次第だ。

▼隣組によるおむすびの炊き出し風景。1945年(昭和20年)7月4日撮影。
 毎日新聞社「昭和史第12巻」空襲・敗戦・占領より)

これは、戦中戦後に声優などで活躍した徳川夢声(1894−1971)が書き残した終戦直前の日記(参考M)です。

 食糧不足は決して全国一様だった訳ではありません(表A参照)。戦火を避け疎開していた人々にとっては疎開先での苦い思い出もたくさんあるようです。学童疎開も始まりました。茨城県取手市へ疎開していた社会活動家平塚らいてう(1886−1971)は、現地の農家の人々が皆、精米した白米ばかりを食べているのを見て、 わたくしは、玄米の優秀さを白米と比較していろいろ話したり、炊き方を教えたり、或る時などおいしく炊いてお握りを作って試食して貰ったりしたが、その時だけは「ボソボソしているかとおもったが、これならうまい!」と肯きはしても、さて自分が試みて見ようというような気は全然ないらしい。それもその筈、都会人は今まで、さんざ白い飯ばかり食って来たのだ、その時百姓はみんな黒い飯を食っていた、今度は俺たちの方が、真白な飯を食う番だ、こう心のどこかで思ってる人たちなのだから。(参考I)

――もっともこれは、自分たち疎開者が玄米の配給米を食べていることをひがんでいるのではなく、当時の彼女は玄米主義者であったため、糠の栄養を無駄にしていることへの感想でした。
国の強力な勧奨によって実施された学童疎開の子供たちの多くはそうではありませんでした。農村部の子供たちとのあからさまな食糧差別に遭い、栄養不足によって痩せ衰え、ひもじさを抱えながら離れて暮らす父母を慕い、辛抱の日々を過ごしていました。





▲1944年(昭和19年)8月の学童疎開出発式。残留学童に見送られているのは、縁故疎開の学童たちか。


▲1945年(昭和20年)8月9日の原子力爆弾投下によってで破壊された浦上天主堂(1946年撮影)。相原秀次写真集「原爆をみつめる」より
米軍は1945年(昭和20年)8月6日の広島に続き、9日には長崎にも原子力爆弾を投下しました。翌日現地入りした陸軍報道部のカメラマン山端庸介(1917−1966)が撮った被災地の写真をご存知でしょうか。その中の一枚に爆心地から南1.5kmで撮影された負傷した母子の写真があります。今号では、掲載の許可を得られませんでしたが、写真集の表紙にもなった写真です。ふたりは治療もされず、ようやく届いた炊き出しのおむすびを手に無表情に立ち尽くしています。人間の愚かさが招いた巨大な悲劇は、人から気力や生きる希望、食欲さえも奪ってしまうものなのです。




それまで辛うじて継続されていたわずかな食糧配給制度が遅配・欠配どころか壊滅状態となり、国民が本当の飢餓に苦しむことになるのは終戦後のことです。焦土と化した町には被災者や職を失った者、大陸や戦地から着の身着のままで引き揚げてきた人々が溢れていました。復興への希望を見出そうにも、空腹ではその意欲も湧かなかったことでしょう。たとえ現金を持っていても買うべき食糧が無い。飢餓感が蔓延し、生きるためには違法と知りながらも闇米を仕入れるためにすし詰め列車で近郊農家へ向かい、闇市ではいかがわしい雑炊や、残飯シチューなどで空腹をしのぎました。農学博士の小泉武夫(1943〜)は、終戦直後に撮影されたおむすびをほおばる被災者の写真を見た時の感想として、梅干しと同様、握り飯もまた、戦後の日本人に力を与えてきた食べ物で、戦後のこの国の原点のひとつとなった救荒食といえよう。(参考K)
と書いていますが、いったい何人の人がおむすびなど口にすることができたというのでしょうか。こうした国民の劣悪な食糧事情は戦後復興の中、朝鮮動乱による特需がもたらされた1950年(昭和25年)頃まで続きました。とはいえ、あらゆる生活必需品が配給または切符制度である事にかわりはなく、お米を購入する時には米穀通帳、外食や宿泊時には外食券が必要でした。米穀通帳には、市町村長の公印が捺され、住居の転居転入などには欠かせない身分証明書のような役割もありました。

 やがて1955年(昭和30年)から始まった「神武景気」と呼ばれた好景気により、
耐久消費財ブームが起こり三種の神器(冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ)がブームとなり、プロパンガスが普及、家庭用電気炊飯器も発売されました。1956年(昭和31年)、経済企画庁(当時)は経済白書の[日本経済の成長と近代化]を、「もはや戦後ではない」という言葉で結びました。


 高度経済成長期に入った日本。産業構造が大きく変化し、女性の社会進出が進み、アメリカ型のスーパーマーケットが誕生、多くの人口が労働力を求める都会へと移動してきました。それは、核家族化への始まりでした。人々が当たり前のように毎日食べていた家庭での手作りの食事が少しずつ郷愁を帯びた懐かしいものへと変わり、「おふくろの味」という概念が生まれたのも、この頃だったのではないでしょうか。1964年(昭和39年)東京オリンピック開催。国民の多くにレジャーという言葉が浸透し、おむすびはお弁当や遠足、運動会に留まらず、登山やハイキング、海水浴へも持ち歩かれるようになりました。



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