昔から「鋸山(のこぎりやま)を越えると肌着が一枚いらない」と言われるように千葉県の南房総は温暖な気候で知られています。北国ではこれから本格的な雪の季節を迎えるこの季節、南房総の玄関口である鋸南町(きょなんまち)では日本水仙の花が群れ咲き、[水仙まつり]が開催されています。水仙切り花の産出量日本一の鋸南町は、越前海岸(福井県)を淡路島(兵庫県)と共に水仙の日本三大群生地を呼ばれています。
 その鋸南町にある千五百羅漢像で有名な[日本寺]開山堂のかたわらに格子の不思議な羅漢像があります。本来、羅漢像とかお釈迦様の弟子たちの修行する姿を理想化したものとされていますが、この羅漢像は左手に数珠、右手に抱いているのは日本水仙の花です。
 台座共に高さ五尺(約1m50cm)のこの像が建立されたのは今から95年前の1916年(大正5年)8月、モデルは東京の下谷区(現台東区下谷)で生花問屋[花太(華太)]を営んでいた内田太郎吉です。




内田太郎吉は埼玉県北足立郡谷塚村(現草加市)の内田半兵衛の長男として1850年(嘉永3年)に生まれました。
それはペリーの黒船が浦賀に来航するわずか3年前でした。揺れ動く時代の中で太郎吉は幼少の頃から花好きの少年として知られ、自ら花作りにも励みました。





大政奉還・江戸城無血開城――時代は大きな変化を迎え、江戸が東京府となった1868年(明治元年)に太郎吉は好きな花の道で身を立てようと上京しました。
下町の人々の温かい人情に触れながら、無心に励んだ修行の甲斐あり下谷根岸に寛永寺創建(1625年)の頃から八代続く老舗花問屋の株を譲り受け、新たに下谷下車坂に[花太]を開業したのは1886年(明治19年)、太郎吉36歳の時でした。当時の府内には[花太]を含めて生花問屋は三軒しかありませんでした。


開山堂へ向かう長い石段のかたわらに建つ祠。
隣にある「内田翁顕彰碑」は、水仙羅漢建立50周年に行われた追善供養の際に二代目内田松之助夫妻と発起人らによって建てられました。
画像提供:鋸南町地域振興課まちづくり推進室


花市場が出来る迄は、花を作る人、或は仲買人等は何れも此所に持ち込んだものである。明治の終り頃迄は、自分の花を少しでも損はぬ様に持ち込むのが自慢で、吉寺あたりから、かついで持つて來たもので、震災前まではまだこうした氣風が殘つて居たそうである。


植木や盆栽は手広く取引されてはいましたが、生花に限っていえば当時の商いの多くは荷車や天秤棒で売り歩く行商や立ち売りがほとんどで、店頭販売といっても、その体裁は門前で線香などと一緒に菊花を売る程度でした。



版画『大日本物産図會 安房國水仙花』
三代目安藤廣重(1842-1894)
画像提供:館山市立博物館


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