故郷の山野で採集に励んでいた20歳の頃。




翌年には土佐及び筑波山で採集した[ヤマトグサ]に日本で初めて学名をつけ、世界に発表。
さらに同志と植物学雑誌を創刊したり、自費で[日本植物志図篇第一巻第一集]を出版しました。

しかし、彼は大学の職員でもなく学生でもない。嫉妬が渦巻く当時の研究界で、ましてや学歴学閥のない富太郎の活躍に様々な妨害が入り、[日本植物志図篇]の刊行は中断され、大学への出入りも禁じられてしまいます。
更に悪いことは重なるもので、潤沢な資金で彼の研究を支えてきたはずの実家の商家が立ちゆかなくなり家財整理のためいったん高知へ戻ることになりました。


  【左】明治21年刊行「日本植物志図篇」・・・富太郎が図を描き、石版印刷した自費出版。
  【右】明治33年刊行「大日本植物志」・・・完璧な記載と精密植物画は世界的な評価を受けた。




私は従来雨風を知らぬ坊ッチャン育ちであまり前後も考えないで鷹揚おうように財産を使いすてていたのが癖になっていて・・・

と本人が語っているように、植物学に対して持つ並々ならぬ情熱に対して、実生活では極端に金銭感覚、経済観念に乏しい面をもっていたようです。30歳を過ぎ東京大学の助手として採用された頃、当時月俸15円の身で重ねた二千円もの借金を、同郷の三菱財閥・岩崎家に肩代わりしてもらった事も。その後も借金は膨らみ続け、再び困窮に陥り大切な植物標本を手放そうというときにも二人の篤志家とくしかに救われています。


私は植物の愛人としてこの世に生まれて来たように感じます。
あるいは草木の精かも知れんと自分で自分を疑います。


彼の場合、お金の使い方は少々常人には理解しがたいが、いわゆる浪費家とも放埒とも違う。しかもいくら借金がかさんでも、その重圧に押しつぶされることがない。経済的な困窮は、彼の研究にとって何ら障害になるものではなかったようです。非凡人の主義を貫いた富太郎の子を13人産み、6人を育て上げた寿衛すえ夫人の苦労・耐乏生活は察するに余りあります。


人生をゆたかに、心楽しく暮らすには
大自然を友とする人でなければなりません。



大学の助手や講師として勤務しながらも借金をして、植物採集のために日本国内ばかりでなく台湾にまで遠征し、論文を発表し続ける富太郎に、相変わらず学内の対抗勢力は手を緩めません。先輩研究者のつけた植物名を雑誌上で訂正するような文章を発表し、感情的に叱責された折にも、


私は大学の職員として(M)氏の下にこそおれ、べつに教授を受けた師弟の関係があるわけではないし、氏に気兼ねをする必要も感じなかったばかりでなく、情実で学問の進歩を抑える理窟はないと、私は相変わらず盛んにわが研究の結果を発表しておった。

と辛辣。しかし、日本の学界や世間に対する彼の影響力はますます大きくなり、輝かしい成果をあげ続け、優れた教育者としての評価も得ることになっていきます。
 昭和2年(1927)、富太郎65歳。研究界や学内での権威や肩書きを徹底的に無視してきた彼も、不当に低い俸給や地位に憤慨していた支持者たちの説得に応じて理学博士の学位を得ることになります。彼の心の中では、「牧野富太郎はこの世にひとりだが、理学博士は数多居る」という考えがあったのかもしれません。



私は従来学者に称号などは全く必要がない、学者には学問だけが必要なのであって、裸一貫で、名も一般に通じ、仕事も認められれば立派な学者である、学位の有無など問題ではない、と思っている〜(中略)〜大学に入ったものだから、学位を押しつけられたりして、すっかり平凡になってしまったことを残念に思っている。



明治33年当時は、小石川植物園内にあった帝国
大学(現・東京大学)理科大学植物学教室の
助手室にて。
採集した植物や標本、書物で溢れています。



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