特集
植物学者
牧野富太郎
没後50年



(財)花と緑の農芸財団の土井脩司前理事長(故人)は生前、折に触れて私たちや研修生に「花に学べ」という言葉を語り聞かせて下さいました。「花に水をあげることは、自分の心に水をあげる事である」とも。現在でも私たちは、この箴言しんげんを胸に刻み、大切にしています。

 植物分類学(Systematic Botany)の世界的権威にして永遠の研究家・・・今年没後50年を迎えた孤高の植物学者・牧野富太郎は自叙伝の中で記しています。

自然に親しむためには、まずおのれを捨てて自然のなかに飛びこんでいくことです。
そしてわたしたちの目に映じ、耳に聞こえ、はだに感ずるものをすなおに観察し、そこから多くのものを学びとることです。
自然はわたしたちにとって得がたい教師です。

牧野富太郎は、近代日本の植物分類学に大いなる貢献を果たし「牧野日本植物図鑑」をはじめとする多数の名著と共に、約40万枚ともいわれる膨大な植物標本を残しています。1,500種類以上の新種・新変種の植物を発見・命名。そうした学術的偉業を追っていくと、そこには彼の人間くさい生き様や強い個性が浮かび上がってきます。


 富太郎は文久2年(1862)、名字帯刀を許された裕福な商家のひとり息子として高知県に生まれますが、三歳の時に父、五歳の時に母を失い、その翌年には祖父を亡くし以来祖母の寵愛ちょうあいを受けて育てられました。文明開化による小学校制度以前の寺子屋を経て学んだ義校・名教館において最年少(10歳)でありながら自由で進歩的な環境にいち早く慣れ、学問を吸収していきました。やがて小学校制度に組み込まれる事になりますが、名教館めいこうかんに比べてはるかに程度の低い学習内容に満足せず自ら退学することとなります。以来、富太郎は最終学歴小学校中退のまま独学自修で植物学に邁進まいしんしていくのです。

人の一生で、自然に親しむということほど有益なことはありません。
人間はもともと自然の一員なのですから、自然にとけこんでこそ、はじめて生きているよろこびを感ずることができるのだと思います。

特に親族の中に草木の嗜好者がいたわけでもなく、師を持たず、学問で身を立てようとか、出世や名誉や名声のためでなく、唯々身近にあった草木に惹かれていくのでした。彼には花や草木のささやく声が聞こえていたのかも知れません。

草木は私の命でした。草木があって私が生き、
私があって草木も世に知られたものが少なくないのです。
草木とは何の宿縁すくせがあったものか知りませんが、 
私はこの草木が好きな事は私の一生を通じてとても幸福であると堅く信じています。

やがて20歳の頃、勧業博覧会見物を兼ねて植物学の資料や精巧なドイツ製顕微鏡を買うために会計支払役などの同行者と共に初めて東京を訪れます。帰郷後、3年余りは植物採集・標本作りや、植物画を画いて暮らすも、明治17年「どうもこんな山奥にいてはいけんと思い、学問をするため」に再び上京する決心をしました。帝国大学(現・東京大学)の植物学教室への出入りを許される機会に恵まれ、貴重な文献や植物標本を自由に見られるようになりました。当時の日本には、統一された完全なる植物誌が存在しなかったことから、富太郎は植物分類研究者としてその編纂へんさんを固く心に誓うのです。そのために自ら図版(植物画)を描き、石版印刷技術まで習得します。


1  2  3

探〜探究探訪〜TOPへ